だが、なぜか読む気にはなれず、ずっと放置していた。(エルネスト・ゲバラ『ゲリラ戦争』も、そうだけれども)
自己啓発本の類にばかり耽溺していて、文学からは離れていた。
しかし、ふと読み始めてみて、短い小説だったこともあり、最後まで一気に読んでしまった。
思い出したのは、学生時代に読んだモーリアックの『テレーズ・デスケールー』だった。
その版の日本語訳を担当したのが遠藤周作、その人だったからだ。
モーリアックも、遠藤周作も、同じテーマを扱っているように思えた。
自分は学生時代は、モーリアックと同梱されていたジッドにより心地よい共感を覚えていて、モーリアックは難解だったし『テレーズ』に関しても、テーマが何なのか、どういう意味だか、最初はさっぱりわからなかった。
ジッドはわかりやすかった。それに、若者に対して開かれた内容のものが多かった。
『背徳者』は若者向けではないが『狭き門』は、まさに若い魂に向けて書かれていたし『田園交響楽』等も同様だった。
『法王庁の抜け穴』も、陰謀というストーリーが若者向けな気がする。
『テレーズ』は、言うなればもっと露骨で、ジッドほど丁寧な説明がないのだ。
人間のもつ暗闇を、一人称で、淡々と描く。
一人称だから、その人物がもつ最大限の論理的思考以上のものは、そこには描かれない。
それを了解したのは、何度も読んでみた後の、もう(長かった)学生時代も終わりの時期だった。
今回読んだ遠藤周作の『海と毒薬』も、同じテーマではあったが、モーリアックより丁寧で多角的だった。
背表紙に「日本人とはいかなる人間か」を追究する、と書かれていた。
それこそ陰謀めいた話になるが、今の日本国内の情勢、原発を巡る議論・・・いや、議論ではもはやない、と信じたいのだが、どうやら、現代においても同じテーマを考えざるを得ない状況が、目の前に転がっている。
政治屋、電力会社、彼らは自身の利益ばかりを追っている。
国民、市井の民のこと等、眼中にない。
解説から引用しよう。
<舞台は戦争末期の九州の大学病院だが、そうした「みんなが死んでいく世の中」「病院で息を引き取らぬ者は、夜ごとの空襲で死んでいく」ような状況下でも、相変わらず教授間の勢力争いは一向やまない。有力な教授たちの最大の関心事は、次期医学部長の椅子を我が手に確保できるかどうかに向けられている。助教授のほうはと言えば、これまた教授のポストを狙って業績稼ぎに余念がなく、そのためには、貧しい施療患者を危険な新型手術の材料に利用することも辞さない。助手にとっては、もっぱら主任教授のご機嫌が悩みの種、というわけだ>
<やがて、あの忌まわしい仕事(※ネタバレ:アメリカ人捕虜の生体解剖)を引き受ける決意へと教授を駆り立てた最大の原因も、軍とコネをつけることで、保身をはかろうというところにあった>
まるで現在の日本の構図そのままではないか。
市井の民は戦争に依って死んでいく、戦争を福島原発のメルトダウンに置き換えられる。
教授の「ポスト」を狙った醜い争いは、政府と電力会社のやりとりにも見える。
アメリカ人捕虜は・・・現時点ではまだ顕在化されていない。いずれ出てくるだろう。
そして、このままの情勢で何十年かすれば、すっかり風化してしまうだろう。
解説から引用する。
<銭湯で顔を合わすガソリン・スタンドの主人が、頭にシャボンをつけたまま、中国での暴行の思い出をしゃべったり、近所の洋服屋が元憲兵だったりする。数年前に残虐な暴力をふるった男たちが、素知らぬ顔で、いや当人にはその意識すらなくて、平和な日常生活に立ち戻っている>
なるほど、戸田や勝呂のような人間たちも、あるいは今の日本のこの状況、政府や電力会社の中にも、おそらくいるだろう。
だが、だからと言って何になる?
当事者の自分、そうした現実に「酔って」感傷的になり「自分は巻き込まれた」と思い込んでいるにすぎない。
防ごうと思えば、防げたかもしれない。
声を上げようと思えば、上げられたかもしれない。
ここが結局、遠藤周作の掘り下げた「日本人」なのかもしれない。
要するに、傍観者の体質なのだ。
こうして文章を綴っている自分、これにしたって例外ではない。
特別、被災者の方たちのために何かできたわけでもない。
ただ怒りを、それもごく単純な義憤をおびて、反体制に廻っているだけのことだ。
利権集団を敵視している。それは本当に直接被災され被爆された方たちのためか?
利権から降ってくるだろう「財」に、実は嫉妬しているだけなのではないのか?
関東圏は、もはや放射能に汚染された。
外へ出るには、マスクをしたほうが賢明だ。
テレビが毎日流す「線量」の情報も、本当かどうか怪しいものだし、元来安全な数値、危険な数値というのは、現段階ではわかっていないのだ。
先ほど、アメリカ人捕虜の役は顕在化していないと書いた。
それはそういう意味だ。
我々の内部被爆による病気や死によって、はじめてデータが得られる。
我ら市井の民は、実験用のモルモットに過ぎない。
大分キツい表現を使ったが、しかし、結局これが現実ではないのか?
今、国内で動いている原発はわずかだが、電力供給は充分だ。枝野大臣もそう会見した。
ならばなぜ、今停止している原発たちを、また動かす必要があるのか?
それについては説明がない。説明したくない事情があるからだ。
疲れた。本当に。
だが、自分はまだまだ、自身に対して厳しくあるようにせねばならぬと思う。
真実から目を背けてはならぬと思う。
自分自身の心の奥底にある、本当の本音、そこから目を離してはいけないと思う。
ようやっと、人生とは何かがわかってきた。
なぜ生きるのか、その意味が、わかりかけてきた。
自身をうまく騙し仰せてきた半生が、自分にはある。
ただこれ以上は、もう騙せる気がしないし、嘘をつける胆力もない。
しかし、自分に嘘をつかずに生きるのは、非常に難しい。
社会や世間からは、面倒くさがられ、あるいは排除されるだろう。
何か特別な能力でもない限り、それでも社会に必要とされる資格はない。
だから自分は今、大博打に出た訳だ。
それも、もういい歳だ。
モラトリアムに浸かっていていい期間はとっくに過ぎたし、青臭い考えも、捨てきれてはいないが、できる限り手放している。
いや、無駄に長く文章を連ねるのはよそう。ここで一端、止めにしておく。

